考えていること

 
 
2020年、目に見えない「東大ラクロス部」という虚な箱を代表する機会が増えた。
でもそれは、主務に限った特殊なことではなく、皆に共通したことだと思う。普段から無意識に「東大ラクロス部」と名乗ることは多いはず。
 

「自分は東大ラクロス部の一員だ」と強く認識することは、「自分は何者なのか」という問いを放棄することに繋がると思う。
 
「東大ラクロス部」という箱を名乗ることの怖さは、その箱に実体があるように思えてしまうこと。
 
結局はただの属性にすぎなくて、この区分けをしたからといって「東大ラクロス部のラクロススタイル」「東大ラクロス部の文化」が見えるわけじゃない。けど、東大ラクロス部の”らしさ”が既にどこかに存在しているように感じて、自分の行先をそこに向けようとしてしまう。
 
自分たちのラクロススタイル、自分たちの文化は、決して過去に規定されるわけじゃない。東大ラクロス部と名乗ることは間違いでも悪いことでもないけど、そこから先の自己認識を突き詰めないと、”ただラクロスをするだけのヒト”にしかなれない。「東大ラクロス部」っていう虚なものに自分のアイデンティティを放り投げてしまっていては、ラクロスロボット100体のチームと相違ない。
 
何をしたいのか、どんな文化にしたいのか、自分自身でまず認識しなければならないし、そこを突き詰めることに僕は貪欲でありたい。
 
 
 
今年の春、ラックスのリビングで中田の唇から「表現」という言葉が発された時、言葉自体に他者の存在を感じる点でユニークだと感じた。
 
表現という言葉には、表現する主体だけでなく、表現されたものを見る人が前提として含まれている。
それは家族でもあり、チームメイトでもあり、同クラでもある。単なる自己完結でなく、関わってきた人との繋がりを自然と意識できる、愛のある言葉だと思う。
 
と同時に、すごく残酷な言葉でもあると感じている。
 
表現されるもの。それは作り出すものではなくて、滲み出るもの。
「表現」を突き詰めようとした時、「ありのままの自分」と「表現したい自分」の2つを明確に区別してしまうと、行き着くところは単なる「演技」。
いくら表現したい自分像を持ったとしても、それは虚像であって、最終的には滲み出る「ありのままの自分」が表現されるものを規定する。
 
滲み出る量はコントロールできるかもしれない。
しかし、滲み出る色は自分の意思でコントロールできるものではない。
それまで積み重ねてきたものによって滲み出る色が決まるのであって、好きなように色を作れるわけではないんだと痛感した。
 
それは残酷なほどにシビアだ。
絵の上手い人、歌の上手い人、ラクロスが上手い人。スキルがある人は世の中に腐るほどいるけど、その姿を見て感動する人は限られているように。
 
僕は深みのある色をもちたい。
たくさんの経験をして、心に湧いた感情を咀嚼して蓄積して、層が幾重にも積み重なった深みのある色を持った人間でありたい。
 
そのために湧き上がる違和感から目を背けないようにしてきた。
もともと違和感から逃げられない性格ではあったけど、その本能を認識して強みだと信じられてからは、湧いた違和感が時の流れとともに薄れないよう向き合ってきた。
 
楽しさとはちょっと離れた感情で、もっと楽観的にいたらどうなったか想像したこともあった。
でも、違和感を無視している姿はあまりにも気持ち悪かった。
 
今でも練習のたびに違和感が湧いてきて、美味しい昼ごはんは滅多に食べられない。
部員と会話するたびに違和感が湧くし、撤収の姿を見ていても違和感が湧く。
 
でも、そこで湧いた違和感を起点に積み重ねた思考や行動は、今の自分の糧になっている。
違和感と向き合うことは、その瞬間は耐えることも多いけど、最後には自信になる。
だからこの本能とともに生きていこうと自信を持てる。
 
結局、自分と外の世界の境界線は違和感によって描かれているんだと思う。
 
自分がそこで何を感じて、何を考えたのか。
起点となる感情はいろいろあるけど、違和感は本能的なものだからこそ大切にしたい。
 
 
 
 
ブログというよりかはエッセイのような、考えていることを淡々と綴る文章になったけれど、これが今の僕であって、表現という言葉に向き合ってきた姿。
今日の夜もこの話をネタに師弟会をしたいと思う。
 
 
4年STF 主務 丸山唯我

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